「見たくないものを見ない」ということ

青少年保護を目的とする法案の説明が「見たくないものを見ない自由」というのは、青少年保護を隠れ蓑にして全年齢対象の表現規制を導入しようとするものではないか、という意見。
山口 浩 2026.07.28
誰でも

国民民主党は2026年7月15日、いわゆる「エロ広告規制法案」を参議院に提出した。正式名称は「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律の一部を改正する法律案」であるが、同時にその通称を「エロ広告規制法案」としていた。

結局この法案は審議未了で事実上廃案となった。同党は今後改めて指摘された懸念点や法的課題を踏まえて議論し、拙速な再提出は行わないとしているが、この件に関して法律の専門家たちを中心に、多くの人々が反対の意見を表明した。表現の自由に関する無視できない制約を課す内容である以上当然だが、規制が必要とする主張も根強い。

個人的には表現の自由を重んじる立場だが、それよりも双方の主張はどうも議論がかみあっていないようにみえることが気になっていた。それは根底に、表には出ていない何らかの考え方や認識があるからではないか、という気がするので、その点を少し考えてみる。以下は確たる根拠のない、いわゆる「独断と偏見」に基づく個人的感想である。

1 誰の「見たくない」なのか

まず気になるのは「見たくないものを見ない」という表現だ。法案自体は、青少年インターネット環境整備法(青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律)の改正案であり、その目的は青少年保護とされている。しかしこれはある種の「建前」あるいは「名目」ではないか、と思われる節がある。というのも、党代表がコンビニの成人向け雑誌のゾーニングを例に挙げ、「見たくない人の見たくない権利も一定程度保障する必要がある」という趣旨の発言をしているからだ。代表はのちに「見たくないものを見ない権利」はまちがいで「見たくないものを見ない自由」「見たくないものを見ない利益」とすべきだったとしていて、その意図はわかるが、「見たくないものを見ない」ことが守られるべきであるという価値判断に変わりはない。

ここがひっかかる。「見たくない」のは子どもたち自身なのだろうか?法案の法的根拠は青少年の健全「育成」であるので、むしろその保護者たちが「子どもに見せたくない」という話かと思われるのだが、それをなぜ「見せたくない」ではなく「見たくない」と表現するのか。もし大人たち自身が「見たくない」ということだとすると、それは年齢を限定しない一般の不快感回避だということになる。つまり、青少年向けの対策が、結果として大人を含む全体への表示規制を正当化する隠れ蓑になっているのではないか。だからこそ「見たくないものを見ない」自由という表現が出てくるのではないか。少なくとも、説明の際に「見たくない人」一般の利益が持ち出されており、そうした疑念を禁じ得ない。

これに対して、人によって見たくないものがちがう以上、ある人の「見たくないものを見ない」を守るなら、すべての人が「見たくないものを見ない」利益なり権利なりを守る必要があり、そんなことをすればほとんどすべての表現が排除されるべき対象になってしまうではないか、という反論が山のように寄せられているが、これがどうにも提唱者たちには理解されていないようにみえる。すべての人が平等である以上、性的広告だけを特別に扱うなら、暴力、昆虫、病気、政治、宗教など、別の人々が強く見たくないと感じる表現と何が違うのかを説明する必要があるはずだ(中には家族の絆を見たくない人も、正義のヒーローを見たくない人もいるだろうからその説明も必要だ)。ところが、その区別の原理が十分示されないまま「見たくない利益」だけが持ち出されており、性的広告を「見たくない」人たちの不快感だけを特権化しているようにもみえる。

2 なぜ表現を縛ろうとするのか

もう1つ気になるのは、なぜ個々の利用者による選択ではなく、プラットフォーム事業者による包括的な表示制限を促すのかという点だ。もちろん理屈はわかる。ユーザーが意図しないタイミングで性的な広告が表示されることがあり、なかなか完全にはシャットアウトできないといった理由が挙げられているようだ。個々の広告枠への表示制限にとどまるなら、直ちに表現そのものの禁止とはいえない。しかし、プラットフォームが年齢を正確に識別できず、違反リスクを避けるため性的と判断されうる広告を一律排除すれば、結果として表現の流通経路そのものが狭められてしまう。

表現の自由と「見たくないものを見ない」の両立は、基本的には個々のユーザーの選択を基準として行われるべきだ。青少年インターネット環境整備法が事業者側の義務を規定しているのは、それが自分では対策が十分にとれず、大人よりも強い保護を必要とする青少年が対象だからという要素が大きい。国会審議の際に取り上げられた「小中学生の「1人1台端末」においてフィルタリングを潜り抜けた性的広告が表示される」などの問題は、広告表現一般を規制する前に、端末管理、契約する広告サービス、ホワイトリスト、教育機関向け広告非表示設定など、学校側・サービス側の限定的な対策を優先すべきだろう。

そこで上記1.の点と重なる部分が出てくる。この法案は上記の通り青少年インターネット環境整備法の改正案であるわけで、プラットフォーム事業者に求められるのは「青少年の閲覧を防止する措置」である。しかし実際にそれをやろうとすると、年齢による区分が充分にはできず、結果として大人も含めて表示を制限するということになりがちであるが、そこで疑問が生じる。ひょっとして、それこそが狙いなのではないか、と。もちろん、これだけで青少年保護が口実だと断定することはできない。しかし、法案の対象は青少年であるはずなのに、説明の場面では「見たくない人」という、年齢を限定しない人々の利益が前面に出ている。このずれは、実質的な関心は全年齢対象の表示制限なのではないか、という疑問を生じさせる。だからこそユーザー側の対策ではなく、プラットフォーム側の対策を求めているのではないか、と。

つまり、青少年向けの対策を隠れ蓑にして大人も含む全体に対する表示規制を行わせようというのが本音ではないのか。だから「見たくないものを見ない」自由という表現が出てくるのではないか。そう疑いたくなる。

図

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そう考えてくると、この法案は、提出者の意図がどうであれ、青少年保護を入口として全年齢の表示制限へつながりうる、実に巧妙な、あるいは狡猾とも評しうる構造になっている。今回の法案は廃案となったが、類似の法案がまたどこからか出てくる可能性は充分にあるので、ここで整理しておきたい(図参照)。「見たくないもの」を意に反して見せられるのはよくない(A)。しかし、年齢識別の困難や事業者の過剰対応によって、その対策が事実上「見たくない人がいるものは、誰にも見せない」という一律規制に転換すれば、表現の自由に対する深刻な侵害となりうる(B)。「見たくないものを見ない」自由はあるので、見なくてすむよう自分で対策をとることができるのであれば、表現の自由と「見たくないものを見ない」は両立する(C)。プラットフォーム事業者はそうしたユーザーの自由を最大化することこそめざすべきである。もちろんこれは、対策のすべてをユーザー本人に委ねるという意味ではない。プラットフォームには、広告カテゴリーの選択、ブロック、年齢別設定など、ユーザーが自分の閲覧環境を制御できる仕組みを提供する責任がある。ただし、最終的な選択を全利用者への一律非表示に置き換えるべきではない。

※次週は採点祭りにてお休み。

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